人の「嫌がること」を、忘れてしまう大人たち
子どものころ、「人の嫌がることはしない」と教わりました。
もう少し大きくなると、「相手の立場に立って考えなさい」とも言われるようになる。
どちらも、言葉だけを見るとすごく単純です。
- 相手が嫌がることをしない
- 自分がされて嫌なことをしない
- 何かをする前に、相手の側から見たらどう感じるのかを少し考える
でも、大人になると、この単純なことが急に難しくなるんですよね。
大人は、その言葉を知らないわけではありません。
むしろ知っているし、知っているのに、いつの間にか見えなくなる。
じゃあ、なぜ見えなくなるのか。
たぶんそれは、大人になるということが、ただ年齢を重ねることではないからだと思います。
大人になるというのは、たくさんの時間を生きるということでもある。
その時間の中で、人は自分なりの価値観や常識を作っていきます。
何が正しくて、何が自然で、どこまでなら許されるのかや何を気にして、何を気にしなくていいのか。
どんな振る舞いが自分らしくて、どんな判断が自分にとって正しいのかを自分の中で持つようになる。
そういうものが、少しずつ自分の中に積み上がっていく。
もちろん、それ自体が悪いわけではありません。
毎回すべてを疑っていたら、生きていくのはかなり大変です。
仕事も生活も、人間関係も、ある程度は自分の判断基準がないと前に進んでいかない。
ただ、その価値観や常識は、ときどき自分を守りすぎる。
自分は普通のことをしているだけだし、悪意もない。
自分なりに考えて動いているし、自分には自分の事情がある。
そう思っているうちに、自分の行動が誰かにとってどう見えるのかを考えなくなる。
最初はあったかもしれない小さな違和感も、いつの間にか感じなくなる。
そこに、大人の難しさがある気がします。
大人は、自分が正しいと思いやすい
大人になると、自我が強くなります。
ここでいう自我は、わがままという意味ではありません。
自分はこういう人間で、こう考えていて、こう生きてきた。
そういうものが、自分の中ではっきりしてくるということです。
それは、生きる上で必要なことでもあります。
でも、自分の輪郭がはっきりするほど、人は自分の行動を正当化しやすくなる。
これは自分の判断だし、自分なりに考えた結果だ。
必要なことだし、仕方がないことでもある。
そうやって、自分の行動を「自分の考え」として見てしまうんだと思います。
でも本当は、その裏に欲望があることも多い。
認められたいし、評価されたい、損だってもちろんしたくない。
こういう欲望そのものが悪いわけではありません。
僕にもあります。
誰かに認められたいし、評価されたら嬉しいし、自分のやっていることが何かにつながってほしいとも思う。
ただ、欲望があるときほど、人は自分に都合よく世界を見てしまう。
これは少しよくないかもしれない、相手は嫌かもしれない、本当は一度立ち止まった方がいいのかもしれない。
そういう感覚が頭の片隅にあっても、自分にとって得になる結果が見えていると、その違和感は簡単に小さくなる。
「でも、悪気はないから」
「でも、みんなやっているから」
「でも、自分なりに考えたことだから」
そういう言葉で、自分を納得させてしまう。
大人が「人の嫌がることはしない」を守れなくなるのは、ルールを知らないからではないと思います。
知っている。
でも、自分の欲望や正しさの中で、それが見えなくなる。
デジタルでは、人が見えにくい
そこに、デジタルの問題も重なります。
デジタルは便利です。
離れた場所にいる人と話せるし、知らなかった人の考えにも触れられる。
連絡も反応も速くできるし、何かを探したり使ったりすることも簡単になりました。
便利であること自体は、もちろん良いことです。
でも、その便利さの裏側で、相手の姿はかなり見えにくくなる。
目の前に人がいれば、表情があって、声の調子がある、沈黙もある。
少し気まずい空気や、相手が傷ついたときの小さな変化もある。
でも画面越しでは、それらの多くが消えてしまう。
だから、対面していたら言わないことを、SNSでは言えてしまうことがある。
目の前にいる人には求めない速さを、オンラインでは当然のように求めてしまうことがある。
相手の生活や事情を考えずに、自分の都合だけで反応してしまうこともある。
誹謗中傷は、そのわかりやすい例だと思います。
目の前にいる人に対しては言えないような言葉を、画面越しでは言えてしまう。
なぜなら、そこにいるはずの人が、ちゃんと人として見えていないからです。
ただ、これは強い言葉だけの話ではありません。
Web上にあるものも、同じように見えにくい。
画面に表示された瞬間、それはただの情報のように見える。
読めるもの、使えるもの、反応できるもの。
自分の目的に合わせて扱えるものとして、そこにあるように見えてしまう。
でも本当は、その向こうには誰かの時間があります。
誰かが考えた時間があり、迷った時間があり、作った時間がある。
言葉にするまでの時間も、そこに至るまで生きてきた時間もある。
本当は、コンテンツがただそこにあるのではない。
誰かの時間や感覚や生活が、結果としてコンテンツの形をしているだけです。
でも人は、画面に出てきた瞬間に、それをただのコンテンツとして見てしまう。
ここが怖いところだと思います。
相手の立場に立つ前に
子どものころ、「相手の立場に立って考えなさい」と言われました。
でもこれは、相手を人として見ていることが前提にあります。
相手にも生活があり、時間があり、嫌だと感じることがある。
自分と同じように、大事にしているものもある。
そう思えてはじめて、相手の立場に立つことができる。
逆に言えば、相手をただの情報として見ているかぎり、相手の立場には立てません。
相手を便利な存在として見ているかぎり、相手の嫌さは見えてこない。
だから、デジタルの時代に必要なのは、特別に新しい倫理というより、もっと手前のことなのかもしれません。
画面の向こうにも人がいると思い出すこと。
たぶん、そこから始めるしかない。
自分を外から見る
じゃあ、どうすればいいのか。
たぶん、自分の行動をどれだけ外から見られるかだと思います。
不思議なことに、自分がやっているときには気にならないことでも、他人がやっているのを見ると、すぐに「それはよくない」とわかることがあります。
それは失礼だし、少し雑だなと思う。
相手の時間を軽く扱っているようにも見えるし、自分の都合で人を使っているようにも見える。
大人は、そういう判断ができます。
長く生きてきたぶん、何が人を傷つけるのかも、何が不誠実に見えるのかも、ある程度はわかっている。
問題は、その判断を自分に向けられるかどうかです。
自分が得をするとき、自分の欲望が満たされるとき、自分の行動を「自分の考え」だと思いたいとき。
そのときに一度、自分を外から見てみる。
もし同じことを他人がしていたら、自分はどう思うだろう。
もし自分がそれをされた側だったら、どう感じるだろう。
これは本当に、自分が胸を張って説明できる行動だろうか。
こういう問いは、少し面倒です。
毎回そんなことを考えていたら疲れるし、もっと気楽に生きたいとも思う。
でも、自分にとって都合のいい行動ほど、そこには誰かが巻き込まれていることがあります。
自分の何気ない言葉や振る舞いにも、思っている以上に誰かの時間や気持ちが関わっている。
だからこそ、自分の側からだけ見て終わらせないことが大事なんだと思います。
人の嫌がることをしない、相手の立場に立って考える。
子どものころに教わった言葉は、単純すぎるように聞こえます。
でも本当は、大人になってからの方がずっと難しい。
自分の価値観があり、欲望があり、利益が見えることもある。
そしてデジタルでは、相手が人として見えにくい。
だからこそ、大人ほど立ち止まる必要がある。
自分は正しいと思っているとき、自分には理由があると思っているとき、自分にとって得になるときほど。
一度、自分の行動を外から見てみる。
便利になることと、互いを人として扱うことは、両立できるはずです。
ただ、そのためにはたぶん、何度も思い出さないといけない。
画面の向こうにも、自分の言葉の先にも、自分と同じように時間を生きている人がいるということを。