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その幸せは砂漠のオアシスかもしれない

その幸せは砂漠のオアシスかもしれない

人として生きる以上、誰もが幸せになりたいと思っているんじゃないだろうか。

どうしたら、幸せになれるのか。

これは人が生涯を生きるうえで大事な問いです。

でも、「どうしたら、幸せになれるか?」なんて質問は愚問。

なぜなら、そんなもの誰にもわからないからです。

幸せの定義なんて人によって違うし、自分だって目に映ったことがある景色から推測してこれが幸せだ、と定義付けるくらい。

強いて、言うなら人生を終えた後の自分なら、幸せとは何かを知っているかもしれないけど、所詮生きた中で見てきた出来事に収まってしまう。

幸せだと思って見ているものが、本当に自分を潤してくれるものなのかはわからないし、喉が渇いていると、遠くに見えるものをオアシスだと思いたくなる。

でも近づいてみたら、それはただ自由そうに見える景色だった、ということもある。

それでも人はどうしたら幸せになれるかについて、考えたほうがきっと人生は幸せに生きられる。

幸せの定義は自分だけが知っていることで、それは日々変化する。

だから、幸せについて考えるのは、思っているよりもずっと面倒。

面倒だけど、多分そこを考えないまま幸せになりたいと言っても、どこかで話は止まってしまう。


幸せになりたい、という矛盾

多くの人は幸せになりたいと言います。

あなたも言葉にしたことはなくても、一度は頭の中で考えたことあると思います。

自分だって、もちろん幸せに生きたいです。

でも、幸せになりたいという言葉に対して、少しだけ違和感があります。

本当に幸せになりたいなら、自分にとっての幸せについて考えるはずです。

それなのに、実際の日々はそうなっていないことが多い。

目の前の仕事をして、疲れたらストレス発散をして、少し遊んで、スマホを見て、また次の日を迎える。

それ自体が悪いと言いたいわけではありません。

仕事をしなければ生活はできないし、疲れたあとに気分転換をすることも必要です。

自分だって、その日をごまかすように過ごしてしまうことはあります。

ただ、幸せになりたいと言いながら、幸せについて考える時間をほとんど持っていない状態には、どこか矛盾を感じます。

そして、その矛盾を考え始めると、結局は生活の前提に触れることになる。

仕事やお金、住む場所、人間関係、時間の使い方。

幸せは、気持ちだけで完結しません。

だからこそ面倒だし、だからこそ見ないふりをしたくなるんだと思います。


常識を外しただけでは足りない

幸せについて考えるとき常識を疑う、常識を外す、というのは有効な手段だと思います。

でも、そこで満足しているようなら、まだまだ、まだまだ考える余地があります。

常識を外すそのものではなく、常識を外した先で考えているか。

「会社に属さず自由に行きたい」「好きな場所で好きな仕事をしたい」

社会人ならこの言葉を誰かが口にしているのを聞いたことがあるはずです。

こういう言葉は言うだけなら簡単だし、聞こえも良い、いかにも自由に自分の人生を生きているように見えます。

でも、僕はそこに引っかかりを感じます。

常識を外すこと自体は前提条件で、いわば真っ白なキャンパスをただ広げただけの状態。

本当に考えるべきはそのキャンパスに何を描くか。

どんな場所でどんな時間を誰と過ごして、どんな不便なら耐えられてどんなストレスなら耐えられないのか。

そこまで考えないまま常識だけを外しても、自分の生き方を選んだことにはならない気がしています。


真っ白なキャンパスに何を描くか

真っ白なキャンパスは文字通り何も描かれていないキャンパスでなければいけない。

キャンパスの端に今の収入でできるか、今の生活リズムでできるか、なんてメモは書かずに、考える。

そのメモがあるだけで、結局今の生活にどう調整したらいいか、という話になってしまう。

もちろん、最後に現実には戻る必要があるけど、枠組みを作って自分で制約を課す誘惑に負けてはいけない。

先日、外資系ホテルに泊まった話です。

ラウンジでゆっくり過ごす時間、整った部屋、美味しい朝食。

ちょっと良いホテルに泊まったら、もう一泊したいな、と考えたことがある人は多いはずです。

でも、そこで「もう一泊するにはどうしたら良いだろう?」、なんなら「毎日このホテルに泊まるにはどうしたらいいだろう?」と考えたことがあるでしょうか。

美味しい朝食を食べながらこんなことを考えていました。

仮に今日の宿泊代が1泊5万円だとすると、月は30日計算で150万円、年間にすると大体1800万円くらいか、と。

年収3000万くらいあれば、生活費や税金入れても、実現できるのかな。

あれ、年収3000万円なんて世の中、結構いるんじゃない?なんてことを頭で巡らせていました。

もちろん、3000万円も持ってないのでそんな生活できないけど、世の中結構いるんじゃないか、と考えた瞬間、なぜか現実味が帯びました。

どうやったら3000万円を稼げるか、というのはもちろん考える必要があるけど、自分にとって常識を外した先を考えるとはそういうのが一つのピースだったりします。


自由そうに見えるもの

逆の例もあります。

バックパッカーという生き方には、少し憧れがあります。

世界を自分の目で見て、組織に属さず、必要最低限の荷物だけを持って移動しながら生きる。

かなり自由で、人間らしい生き方に見えます。

でも、自分がバックパッカーになったら幸せかと聞かれると、たぶん幸せではないと思います。

それは、バックパッカーという生き方が不幸せだという意味ではありません。

ただ、自分が求めている生き方とは違うというだけです。

移動の多さ、生活の不安定さ、知らない土地での緊張感。

そういうものに耐えられないストレスが、自分にはきっとある。

一番現実的なことを言えば、ウォシュレットのないトイレに毎日耐えられる自信もありません。

こういう細かいことを、馬鹿にできないと思っています。

自由そうに見えるか、かっこよく見えるか、世の中的に正しそうかどうか。

そういうものと、自分がその生活を毎日続けられるかどうかは別です。

憧れは、外から見た印象でできていることが多い。

遠くから見ていると、まるでオアシスのように見えるけど、そこに本当に自分を潤す水があるかは、別の話。

でも、生活は中に入ってから続いていく。

その中で自分の体や気分がどう反応するのかまで見ないと、自分に合うかどうかはわからないんだと思います。


時間の枠を疑う

わかりやすい例で言うと、平日と土日の概念。

僕は組織には属してないので、いまはありませんが、組織に属していたころはやはり曜日に対しては敏感に反応していました。

平日は働いて、土日は休む。

遊びも家族との時間もその枠を中心として考えていましたが、今は平日と土日を強く意識することはありません。

今日が何曜日かわからなくなることもよくあります。

自由に生きてる、と言いたいわけではなく、この根本としてそもそも曜日って何?を疑い始めたことが、今につながっています。

同じ人類でありながら原始人は曜日なんて知らないし、人って本来そういう生き方ができるんじゃないかと。

もちろん生きている時代が違いすぎているし、今を生きる限り社会に身を置いてるので、原始人は曜日なんてしらないでしょ、だからこれから曜日なんて気にしない、というのは無理があります。

ただ、そうやって考えていくうちに、自分が考える人間らしい生き方は、時間の枠を取っ払うことに繋がることを気づきました。

これはあくまで僕の考えなので時間ひとつとって考えてみても、人によって価値や考えが違うのは当たり前で、正解があるものでもないです。

大事なのは、平日と土日を外すことではなく、自分がどれくらい時間に縛られる生活なら耐えられて、どれくらい時間の主導権を持てると気分よく生きられるのかを考えたことなんだと思います。


理想は日常になる

今、平日の昼間に文章を書いています。

組織に属してないので、何かに拘束されているわけではありません。

これを理想だと思う人もいるかもしれない。

実際、以前の自分にとっては、これは理想の姿でしたが、今の理想はもっと視野が広いところにあります。

理想の生活は、一度決めたら終わりではない。

その状態になって初めて見えるものがあります。

手に入れる前は自由に見えていたものが、手に入れたあとには日常になるし、日常になったからこそ、次に考えるべきことが見えてくる。

カフェで自由に仕事をしている人を見ると、自由で楽しそうに見えるかもしれません。

でも、そこでやっていることは結局、仕事です。

場所がオフィスからカフェに変わっただけで、締切があり、責任があり、考えなければいけないことがある。

カフェで仕事をやるのが幸せなのか、カフェで仕事をしているのが自由に見えるのか、は見た目には同じでも全くの別物です。

それを「自由そう」という外側のイメージだけで憧れても、自分の幸せには近づかない。

昔の自分が欲しかったものを、今の自分がそのまま欲しがっているとは限らない。

ここも、忘れないようにしたいと思っています。


自分の価値は幸せに繋がる

目の前の仕事だけをこなし、疲れたらストレス発散でその日をごまかす。

その生活を続けていると、自分が何を大事にして、どう生きたいのかを考える時間がなくなっていきます。

そこに、AIによって仕事がなくなるかもしれないという不安が来る。

自分の仕事はこの先どうなるのか。

今のスキルは通用するのか。

AIを使いこなしている人に置いていかれるのではないか。

でも、その不安と向き合う余力がないから、また目の前の仕事や気晴らしで流してしまう。

以前、AI時代に人間として何が残るのかについて書きました。

AI時代の「あなた」である意味
日々、AIが凄まじいスピードで進化していく中で、人間はどういうスタンスで生きていくか。 この問いは、現代人が考える大きなテーマの1つじゃないかと思っています。 もちろん、この問いに明確な正解はありません。 時代の変化は今も進んでいる途中だし、数年後には今の常識がまったく通用しなくなっている可能性もある。 それでも、自分なりに今の時点で思っていることはあります。 AIの進歩によって人の仕事がなくなる。 この言葉は、ここ数年でかなり頻繁に耳にするようになりました。 ニュースでもSNSでも、AIが文章を書いたり画像を作る、コードを書いてアプリを作る、そんな情報が毎日のように流れてくる。 ちょっと前まで当たり前のように人間がやっていたことを、気づいたらAIでもできるようになっている。 そういうものを見ていると、不安になる人がいるのは当然だと思います。 自分の仕事は大丈夫なのか。 これまで積み上げてきたスキルは無駄になるのか、AIをうまく使っている人だけが先に進んで、自分だけが取り残されるのではないか。 こういう不安は、たぶん誰にでも少なからずあると思うんですよね。

そこで書いたように、AIに奪われやすいのは、人間がやる意味が薄い作業です。

だとしたら本当に向き合うべきなのは、AIそのものよりも、自分は何を大事にして、どんな価値を出したいのかという問いなのだと思います。

そしてそれは、自分にとっての幸せを考えることともつながっています。

自分がどう生きたいのかを考えないまま、自分がどんな価値を出したいのかを考えることはできない。

最近は、そう思うようになりました。


常識を外すことは、自由になることではないのかもしれません。

少なくとも、自分にとってはそうです。

常識を外した先には、面倒な現実があり、綺麗ごとでは片付けることができません。

お金のことや時間のこと、自分の体が耐えられるのは何か。

今の自分を起点に考えすぎると、結局は今の延長に戻ってしまう。

でも、常識を外すことだけを目的にすると、自由そうな言葉に流されてしまう。

その間にあるものを、ちゃんと見たいと思っています。

そういうことを考えないまま、幸せになりたいと言っても、たぶんどこにも進まない。

自分が幸せだと思って追いかけているものは、本当に自分を潤すものなのか。

それとも、遠くから見えたオアシスのようなものなのか。

そんなことを、最近よく考えています。