プラットフォームは人を「村人」にする
新しいプラットフォームに参加するたびに、そこには少しだけ希望があります。
ここなら、「自分の言葉が届くかもしれない」「似た感覚を持つ人と出会えるかもしれない」と誰もがワクワクしてやってきます。
今までとは違う形で、自分を出せるかもしれない。
ニュースレターでも、他のSNSでも名前や仕組みは違っても、最初の感覚はどこか似ています。
まだ空気が固まっていない場所には、少し自由な感じがある。
何を書いてもいいような、誰かに見つけてもらえるような、ここから何かが始まるような感覚がある。
でも、プラットフォームはただの道具ではありません。
そこに人が集まり、何度も通い、顔見知りができ、リアクションのルールが生まれ、よく見かける名前が増えてくると、その場所はだんだん小さな村のようになっていきます。
僕は最近、そういう場所のことをデジタルヴィレッジとして考えています。
デジタルヴィレッジには、もちろん良さがあります。
ひとりで書いていたら届かなかった言葉が、誰かに届くことがあるし、自分の中では曖昧だった感覚に、他の人の言葉が輪郭を与えてくれることもある。
似たような違和感を持っている人がいるとわかるだけで、少し安心することだってあります。
ただ同時に、村には村の空気があります。
数字が見える、誰がよく反応されているかが見える、誰が誰とやりとりしているかが見える。
どんな言葉が好まれ、どんな振る舞いが歓迎されるのかも、少しずつ見えてくる。
そして僕たちは、自分では気づかないうちに、その村に合わせて育っていく。
村は人を育てる
どんな場所に通うかで、人の感覚は変わると思っています。
数字が見える場所にいれば、数字を見る人になるし、速い反応が返ってくる場所にいれば、速く反応される言葉を探すようになる。
交流が可視化される場所にいれば、関係性の数や温度を気にするようにだってなるでしょう。
これは、意志が弱いからそうなるという話ではありません。
人間は環境に影響されるし、毎日目にするものによって、何を大事だと思うかが少しずつ変わっていく。
最初はただ、書きたいことを書いていたはずなのに、気づくと「これは伸びるだろうか」と考えていたり、読みたい人を読んでいたはずなのに、「誰とつながっているように見えるか」を気にしている。
面白い場所だと思っていたはずなのに、「この場所でうまくやれている自分」を守ろうとしているのかもしれません。
プラットフォームは、自分が何を投稿するかだけでなく、自分が何を気にする人間になるかまで変えてしまう。
それが少し怖いところです。
そして、その怖さはいろんなプラットフォームを渡り歩いてきた人なら、どこか心あたりがある話だと思います。
これは、便利な道具との付き合い方にも似ていると思っていて、できることが増えたとき、人は何を手放し、何を自分の手元に残すのかを問われる。
プラットフォームの場合、手放してしまうものは作業だけではありません。
自分の判断基準や、言葉の出どころ、何を心地よいと感じるかまで、少しずつどこか違う場所へ移してしまうことがある。
それは急に起こるわけではありません。
昨日まで自分の言葉だったものが、今日から突然別のものに変わるわけではない。
ただ、少しずつ変わっていく。
昨日より少しだけ数字を気にして、昨日より少しだけ村の空気を読み、昨日より少しだけ自分の違和感を飲み込む。
その小さな調整の積み重ねが、いつの間にか自分の輪郭を変えていくのだと思います。
最初は数字が嬉しい
いいねがついて、コメントがくる。
フォローされたり、購読される。
それは普通に嬉しいことだし、書いたものに誰かが反応してくれたら喜ぶのは自然です。
自分の言葉が誰かに届いたと感じられたら、続ける力にもなる。
そこを無理に否定する必要はないと思っています。
これは以前の記事で書いたので、僕自身にもある感情です。
数字は最初は嬉しいだけだったのに、いつの間にか意味を持ちすぎることがあります。
この数字が増えれば、自分は認められていると感じ、この数字が伸びれば自分はここにいていい。
なんなら、この数字が大きくなれば、いつか何かが変わるかもしれない。
そう感じ始めると、数字はただの指標ではなくなります。
まるで自分の価値や未来を証明してくれるもののように見えてくる。
そして、数字がそう見えた瞬間に、人は少し正気でいられなくなるのかもしれません。
書きたいから書くのではなく、伸びそうだから書くようになり、届けたいから書くのではなく、反応されそうだから書く。
自分の中にあるものを言葉にするつもりで村に入ったのに、いつしか村の中で好まれそうな自分を差し出す。
もちろん、それで本当に何かを得られることだってあると思います。
読まれることによって道が開けることもあるし、数字が増えることで新しい読者に届くこともある。
数字を完全に無視すればいい、という単純な話ではありません。
でも、その過程で自分が何に育っていくのかは、もう少し慎重に見た方がいい。
数字は良くも悪くもはっきり見えるので便利です。
だけど、便利だからこそ危うい。
自分の中の曖昧な感覚より、画面に表示された数字の方がわかりやすいからです。
人気者になった先に、何が残るのか
人気者になりたい、読まれたい、知られたい。
そういう気持ちは、たぶん多くの人の中にある感情です。
人前ではあまり言わないだけで、自分の言葉が広がってほしいとか、自分の存在に気づいてほしいとか、そういう感情がまったくない人の方が少ないのではないかと思います。
もちろん、僕にだってあります。
だから、人気になりたい気持ちそのものを否定したいわけではありません。
誰にも読まれなくていいなら、そもそも公開しなくてもいいし、公開する以上、どこかに届いてほしい気持ちがある。
でも、ここで考えたいことがあります。
人気者になった先、あなたの投稿リストには何が並んでいますか。
この問いは、自分にも向けています。
その場で反応された言葉、村の空気に合わせた言葉、誰かに見つけてもらうために、少しずつ自分の輪郭を薄めた言葉。
そういうものが並んだとき、それは本当に自分が残したかった場所なのだろうか、と。
投稿リストは、ただの過去ログではありません。
そこには自分が何を考え、何に反応し、何を残そうとしたのかが並びます。
同時に、何に寄せていったのかも時系列で並びます。
数字に寄せたのか、村の空気に寄せたのか、自分の中に残っている違和感や関心に寄せたのか、それは未来の自分が客観的に見たら一目でわかるでしょう。
人気になることが悪いわけではありません。
読まれることも、広がることも、嬉しいことです。
ただ、人気になった先に、自分の場所に何が残っているのか。
それを見ないまま数字だけを追ってしまうと、気づいたときには、自分の場所が自分のものではなくなっているかもしれない。
自分の投稿リストを見返したときに、そこに並んでいるものが「本当は残したかったもの」と少しずつズレていたら、それは成功なのだろうか。
村に残ることと、自分を保つことは違う
周囲がいなくなったとき、あなたはそのプラットフォームに残りますか。
これは、特定のプラットフォームだけの話ではありません。
Xでも、Instagramでも、これから出てくるまだ名前も知らないプラットフォームでも、間違いなく同じことが起こると思っています。
人がいるからいるのか、反応があるからいるのか、その場所にいる自分が好きだからいるのか。
本当にそこで書きたいこと、読みたい人、続けたい関係があるのかは、ときどき確認した方がいい。
なぜなら、デジタルヴィレッジでは「そこにいる」こと自体が目的になりやすいからです。
毎日その場所を見て、誰かの投稿に反応して、自分も投稿していると、続けることそのものが目的になっていく。
でも、書かない継続は、幻想の継続かもしれません。
場所に残っていることと、自分の言葉や感覚を保っていることは違います。
その場所でうまくやれている自分を守ることと、本当に書きたいものを書き続けることも違います。
「その場所が好きな自分が好き」になっていないか。
「この村にいる自分」を守るために、書く理由を後回しにしていないか。
そういう問いは、少し突き刺さるけど、たぶん必要です。
プラットフォームに愛着を持つことは悪いことではありません。
むしろ、何かを続けるには愛着が必要だと思います。
でも、その愛着がいつの間にか、自分の違和感を見ないための言い訳になっていることもある。
「本当はもう書きたいことがない」のに、そこにいる自分を続けるために投稿する。
「本当は疲れている」のに、村の流れから外れたくなくて反応する。
「本当は考えたいことが別にある」のに、ここで受け入れられそうな話題を選ぶ。
そういう小さなズレは、外から見るとほとんどわかりませんが、自分の中では少しずつ蓄積していく。
読む人としての自分も育っていく
プラットフォームが育てるのは、書く側の自分だけではなく、読む側の自分も育っていきます。
何にいいねをして、どれくらい深く読んでコメントするのか。
相手の言葉を、どれくらい自分の中に入れてからリアクションするのか、みたいな部分は積み重ねて、少しずつ自分の村でのありかたを作っていく。
デジタルの村では、反応することが簡単です。
いいねを押したり、短く共感するだけ。
もちろん、それ自体が悪いわけではありません。
短い言葉でも、ちゃんと届くことはあるし、たった一言で救われることだってある。
でも、言葉だけを見て反応し、共感した気になっているなら、少し危ないと思っています。
相手が何を言っているのか、なぜそれを書いたのか、どの文脈でその言葉が出てきたのか。
それを受け取らないままでも、「わかります」「いいですね」と返すことはできてしまう。
その共感は、相手の言葉に向いているのか、それとも、自分が感じよく見えるための反射になっているのかを自分自身が疑わないと、交流は少しずつ薄くなっていく。
自分が反応している相手は人間です。
そんな適当さはバレないつもりでも、温度感一つで気づかれることだって、冷められることだってある。
デジタル上だから、とかリアルだからとかは関係ない。
これは、誰かを責めたいという話ではありません。
自分も気を抜けば、簡単にそうなると思っています。
速く反応することに慣れると、ちゃんと読むことが遅く感じるし、関係を円滑に保つことに慣れると、相手の言葉に踏み込んで考えることが面倒になる。
でも本当の交流は、接続ではなく、受け取ることから始まるはずです。
相手の言葉を読み、自分の中で少し考え、それから返す。
その遅さを失うと、デジタルヴィレッジはただ反応が行き交う場所になってしまう。
便利な世の中なので、つながることは本当に簡単になりました。
だけど、相手の言葉を受け取ることは、たぶん今も簡単ではありません。
だからこそ、そこに人間らしさが残るんだと思います。
村から出るのではなく、距離を持って住む
ここまで書くと、プラットフォームから離れた方がいいという話に見えるかもしれませんが、そういうことを言いたいわけではありません。
デジタルヴィレッジには、もちろん良さがあります。
自分だけでは出会えなかった人に出会えるようになり、ひとりでは言葉にできなかった感覚が、誰かとのやりとりで形になる。
小さな文章が、思ってもみなかった人に届く。
そういう体験があるから、僕たちは何度もその場所に戻っていく。
だから大事なのは、村から出ることではなく、距離を持って住むことだと思っています。
数字を見ない時間を持つ、誰にも見せない言葉を書き、反応を狙わない文章を自分の考えで残す。
すぐに反応せず、少し読んでから言葉を返す。
村の空気だけで、自分を育てないようにする。
プラットフォームはこれからも形を変えて出てくるはずです。
名前はもちろん違うし、仕組みだって似たような機能はあれど、なんだか違うような見え方にもなる。
数字の見せ方だって、交流の雰囲気もなんとなく変わる。
でも、そこにいる人間が、何かを求め、何かに流され、何者かになろうとしてしまうことは、きっとあまり変わらない。
だから考えたいのは、どのプラットフォームを使うかだけではありません。
その場所に通い続けることで、自分がどう育ってしまうのか。
そして、自分の言葉や感覚を、どう保っていくのか。
デジタルヴィレッジに住むなら、ときどき自分自身に問いかけてください。
数字が見える場所で、きちんと正気を保ち、交流が増える場所で、相手の言葉を雑に扱わない。
それはたぶん、これからの時代に、自分を育てていくための作法なのだと思います。